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特集

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“西郷どん”最期の戦い 悲劇の内戦「西南戦争」

晋どん、もうこの辺でよかろう

 1873年(明治6)、中央政府を下野した西郷隆盛は鹿児島へと帰郷し、私学校を設立した。これは、西郷の下野に付き添った士族たちに軍事訓練などを施す学校で、私学校という名前ではあったが、当時の鹿児島県令・大山綱良のバックアップも受ける大規模なものであった。西郷の中には、不平士族たちの暴発を防ぐ目的があったといわれているが、絶大なカリスマ性を持つ西郷の元に、多くの士族たちが集まることとなり、それが中央政府に警戒を抱かせ、脅威と感じさせる結果になった。
 そして、1876年(明治9)の廃刀令により、不平士族の不満が爆発。各地で士族の反乱が起き、ついに国内最後の内戦・西南戦争へと突入した。士気が高く、精鋭ぞろいの薩摩軍であったが、最新装備で身を固めた新政府軍の方が武力や数で勝り、とうとう城山で最期の戦いを迎えることになった。
 1877年(明治10)9月24日、城山を幾重にも取り囲んだ新政府軍が放つ銃弾が雨のように降り注ぐ中、行き残った薩軍兵たちは徒歩で山を下り始めた。一人また一人と兵が倒れる中、ついに西郷の体を1発の銃弾が貫いた。膝をつき、力尽きた西郷は、傍らにいた別府晋介の介錯により自決。「晋どん、もうこの辺でよかろう」が最後の言葉となった。享年49歳。幕末のヒーロ―が、その波乱の人生の幕を閉じた瞬間である。西郷の自決後、残った幹部たちは最後の力を振り絞って戦い、戦死または自決して西郷のあとを追った。

©K.P.V.B

私学校跡

1873年(明治6)、西郷隆盛らによって設立された薩摩士族のための軍事学校。鹿児島県令や大久保利通からの支援も受けていた学校であったが、後にここの生徒たちが中心となり西南戦争が引き起こされることに。石垣には多くの銃弾の跡が残り、戦いの激しさがうかがえる。

  • 鹿児島県鹿児島市城山町8

©K.P.V.B

南洲墓地

西南戦争で戦死した2,000人以上の人々が埋葬されている。中には14歳の少年や5人兄弟、山形県鶴岡の若者の墓も。南翁終焉の地から北へ徒歩約10分。墓地の北隣には、西郷隆盛を祀る南洲神社がある。

  • 鹿児島県鹿児島市上竜尾町2(南洲公園内)
  • 099-247-1100
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