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特集

2018年(平成30)7月、世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。禁教下で約250年にわたり信仰を貫いた潜伏キリシタンの軌跡を、長崎県・熊本県に所在する12の構成資産とともにたどってみたい。

潜伏キリシタンの軌跡を12の構成資産とたどる

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、禁教期に密かにキリスト教の信仰を続けた潜伏キリシタンの歴史を物語る貴重な遺産。厳しい弾圧に耐えながら、仏教や神道など日本の伝統宗教と共存した独自の信仰形態が世界に類を見ないと高く評価された。

1549年(天文18)、宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝来すると、宣教活動やキリシタン大名の保護によって全国各地に急速に広まった。けれども1614年(慶長19)、江戸幕府が禁教令を発布したことで、宣教師は国外へ追放され、各地の教会が破壊された。1637年(寛永14)には、圧政に耐えかねたキリシタンが蜂起し、島原・天草一揆が勃発。最後は一揆勢が「原城跡」(長崎県南島原市)に籠城し、徹底抗戦したものの、幕府軍によって鎮圧された。幕藩体制を揺るがす大事件に危機感を抱いた幕府はポルトガル船の来港を禁じ、海禁体制(鎖国)を確立。国内に宣教師が不在となった中、日本各地のキリシタンは〝潜伏〟して信仰を守り続けた。しかし、17世紀後半に大規模なキリシタン摘発が繰り返し発生。潜伏キリシタンの多くが棄教、殉教した。

そんな中、宣教の拠点として集中的に布教が行われた長崎と天草地方では、18世紀以降も独自に信仰を実践する方法が模索されていった。「平戸の聖地と集落」(長崎県平戸市)の「春日集落と安満岳」では山岳信仰に重ねて神を崇拝し、聖水を採取する場であった「中江ノ島」は島自体を聖地として崇めた。

「天草の﨑津集落」(熊本県天草市)では、生活や生業に根ざした漁村特有の信仰形態が育まれた。また、「外海の出津集落」(長崎県長崎市)では聖画像や教理書、教会暦などを伝承。「外海の大野集落」(同)では、氏子となった神社に密かに祀った自らの信仰対象を拝んだ。このように、各集落で独自の対象に密かに祈りを捧げ、脈々と信仰が受け継がれていった。

「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」
(長崎県平戸市)

「平戸の聖地と集落(中江ノ島)」
(長崎県平戸市)

18世紀末になると、外海地区の潜伏キリシタンたちは迫害の激化と人口増加を背景に、役人の目が届きにくい離島に活路を求め、開拓移住が行われた。「黒島」(長崎県佐世保市)では平戸藩の軍馬を飼育する牧場跡の再開発地を開拓し、「野崎島」(長崎県小値賀町)では神道の聖地である沖ノ神嶋(おきのこうじま)神社の氏子を装った。また、病人の療養地として利用されていた島を開拓した「頭ヶ島(かしらがしま)」(長崎県新上五島町)や、五島藩の政策に従い未開発地を切り開いた「久賀島(ひさかじま)」(長崎県五島市)など、既存の社会や宗教との折り合いのつけ方を考慮して移住先を選択することで、信仰の共同体を維持したといわれている。

開国後の1864年(元治元)、外国から来た宣教師たちは「大浦天主堂」(長崎県長崎市)を建設。 居留地の西洋人のために宣教活動を行った。翌年、浦上地区の潜伏キリシタンが大浦天主堂の神父に信仰を告白した「信徒発見」を機に、多くの潜伏キリシタンが信仰を表明したため、再び弾圧が激化。 けれども西洋諸国からの強い抗議を受け、1873年(明治6)にキリシタン禁制の高札が撤廃された。密かに信仰を続けた潜伏キリシタンはカトリックに復帰し、各地で教会堂が建設されていった。 1918年(大正7年)、「奈留島(なるしま)の江上集落」(長崎県五島市)に建てられた江上天主堂は、〝潜伏〟の終焉の象徴とされている。

「野崎島の集落跡」の旧野首教会堂
(長崎県小値賀町)

「奈留島の江上集落」の江上天主堂
(長崎県五島市)

  • 095-823-7650(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター)
      ※教会の見学を希望する場合は上記へ事前に要連絡(大浦天主堂は連絡不要)

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