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特集 2019年12月号
北前船の寄港地へ
船絵馬「卯日丸・幸甚丸・幸得丸」
江戸時代中頃から明治30年代にかけて、大坂から蝦夷地(現在の大阪から北海道)へ日本海を経由して、商品を売買しながら航海した北前船。海上交通の大動脈として活躍した北前船の軌跡をたどる。
荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~
北前船の大きな特徴は、積み荷を売買しながら航海したという点である。寄港地で安い商品を仕入れ、高く売れる品物があればそこで売る――そうして商売をしながら海を渡っていた。扱う商品は多岐にわたるが、例えば米。大阪は日本海沿岸や西日本の大名が納めた年貢米が集まる地であったことから、北前船の船乗りは大阪で米を仕入れ、各地で売りさばいた。瀬戸内の塩も需要が高かったほか、紙の原料や木綿、鉄などの金属、漆器やおもちゃなど、あらゆるものを運んだという。ものに限らず、食文化や民謡などのさまざまな文化そのものをも運び、日本文化の発展にも多いに貢献した。
北前船は、約1年をかけ大阪~北海道間を往復する。現在の暦で3月頃に大阪を出発し、4~5月頃に北海道に到着。ニシンや昆布など北海道の産物を買い入れ、再び大阪を目指して出航した。成功すれば1往復で千両(現代の価値に換算すると約6,000万~1億円)もの利益を得ることができたという北前船。一獲千金を夢見て、多くの船乗りたちが海へと向かったという。
まだ東京から青森を結ぶ東北本線が全通する以前、また荷物を大量かつ安全に輸送できる汽船が普及していなかった時代に、北前船は日本の重要な交易手段であり、それが「海の経済動脈」と称されるゆえんである。
船主たちの暮らしを町並みから辿る
北前船の船主集落のひとつ、石川県加賀市の橋立には、現在船主邸13棟、船頭邸7棟などが現存する。瓦葺きの民家には船板を利用した壁板、北前船で運ばれた笏谷石(しゃくだにいし)や赤瓦が使用されており、遠くまで連なる赤瓦の屋根が、風情ある町並みを形成している。豪壮な佇まいの加賀市 北前船の里資料館(旧酒谷長兵衛家住宅)、庭園に北前船で運ばれた各地の名石が残る北前船主屋敷 蔵六園(ぞうろくえん)など、往来の面影が残る建築物は見応え十分だ。
加賀市 北前船の里資料館には船絵馬「卯日丸・幸甚丸・幸得丸」が常設展示されている。船絵馬とは、船乗りが航海の安全祈願や航海を無事終えたことに感謝を捧げるために地元の神社に奉納したもので、「卯日丸・幸甚丸・幸得丸」の場合は橋立の出水(いずみ)神社に奉納されたと伝わる。
そして同県小松市、安宅の関(あたかのせき)は、古くから日本海側の海上交通の要として栄えた地。北前船によって運ばれた商品は、梯川(かけはしがわ)や前川、串川を経由し、南加賀エリアまで広く流通した。江戸時代には米屋や畳表(たたみおもて)、煎茶など、明治時代にはそれらに加え、九谷焼や銅、瓦、羽二重(はぶたえ)、小麦などが安宅から各地へと移出された。船乗りたちはこの地を訪れると、難関突破のご利益で知られる安宅住吉神社にお詣りし、荒波などの危険を伴う航海の無事を祈ったという。
潮風に包まれた港町 賀露(かろ)と諸寄(もろよせ)
城山園地から見た諸寄港
船乗りたちの息吹を 今に伝える港町・賀露
鳥取県鳥取市の賀露は、北前船船主が集住していたことで知られる港町。賀露港近郊の小路に入ると、そのほとんどが海に通じていることがわかる。これは、どこからでも海まで出やすいようにするための工夫だという。大きな夢を胸に海へと向かった船乗りたちに思いを馳せながら路地を歩くと、彼らの息づかいが聞こえてくるようだ。
賀露に来たら、足をのばして賀露神社にも訪れたい。賀露神社には船絵馬や北前船の船模型などが奉納されている。そのほか、石灯籠には近江屋、木屋、見世屋、濱屋、秋里屋、塩屋、油屋、居組屋、雲津屋、網師屋ら賀露を拠点に北前船で巨万の富を得た廻船商人の名が刻まれているなど、北前船との縁が深い神社といえる。丘陵地に建てられているため、境内からは賀露港やその向こうに広がる日本海の絶景も楽しめる。
北前船で成功を収めた 大船主の家屋が点在する諸寄
兵庫県新温泉町の諸寄も北前船寄港地のひとつ。ここにも、北前船で富を築いた中藤田家や東藤田家、道盛家ら有力船主の邸宅や、船乗りが航海の安全を祈った為世永神社(いよながじんじゃ)、諸寄近くで難破した船乗りたちを弔った諸谷山龍満寺(しょこくさんりゅうまんじ)など、数々の北前船ゆかりのスポットが点在する。北前船により人や物の交流が盛んになったことから文化も大きく発展し、明治に活躍した歌人・前田純孝や日本画家・谷角日沙春(たにかどひさはる)など、郷土出身の優れた文化人を数多く輩出した地でもある。
諸寄港を訪れると、岩場のところどころに穴が開いているのが目に留まる。これは北前船の「係留杭跡(けいりゅうくいあと)」といい、船をつなぎ留めた杭の跡。船が安全に停泊・出港したり、潮待ちするために利用されていた名残であり、今では日本遺産の構成文化財になっている。港周辺に来たらぜひ探してみよう。
浜田藩最大の貿易港 外ノ浦(とのうら)
浜田市街から2キロほど北に位置する外ノ浦海岸
小さな集落に残る 大きな夢の足跡
島根県浜田市の外ノ浦(とのうら)は、主に北前船の風待ち港、瀬戸内方面への中継点として利用された。外ノ浦湾の深い入り江沿いの、山に囲まれた小さな平地に、廻船問屋や船主の集落が形成されたという。
船乗りは出港前に日和山(ひよりやま)を訪れ、「方角石」を用いて風向きや潮の流れを確認した。方角石は今でもその場所に残されている。廻船問屋や米屋が出入りする北前船の様子が描かれた「自唐鐘浦至長浜浦海岸絵図(とうがねうらよりながはまうらにいたるかいがんえず)」をはじめとした数々の史料からも、北前船の寄港地として外ノ浦が栄えたことがうかがえる。
ほかにも、かつての北前船寄港地には、今でも当時の情景を思わせる場所があまた存在する。一獲千金の夢物語を追い求め、危険と隣りあわせの海路へと出向いた船乗りたち。彼らの軌跡をたどり、果てないロマンを感じてみてはいかがだろうか。