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特集 2019年5月号
自然と歴史が融合するせとうち
干潟や白砂青松など、変化に富んだ海岸の瀬戸内海。湖のように穏やかなその海面には、大小700余りの島々が点在している。また、本州、九州、四国に接していることもあり古くより海上交通の要衝として栄え、歴史の表舞台としての役割も果たしてきた。豊かな自然と長い歴史に育まれた“せとうち”の、その個性とは――。
三原駅の新幹線側の出口を出るとすぐに、三原城天主台跡への階段がある。三原城跡は、現在山陽本線と山陽新幹線が本丸を貫き、三原駅はなんと本丸跡に位置している。
三原城は、1567年に小早川隆景(たかかげ)が沼田川河口の三原の小島をつないで構築した海城(浮城)である。海に向かって船入を開き、城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、小早川氏移封の後も福島氏・浅野氏の支城となった。数日間で400余りの城を壊させた一国一城令布告後も、例外として三原城は残されたほどであった。
三原は、瀬戸内海有数のマダコの産地である。水質が良く水温も一定で、砂や適度な岩場がある港の沖合は、絶好のタコ漁場。昔から受け継がれている伝統のタコ漁法もあるという。海岸沿いには、干しダコが潮風に揺れる姿がお馴染みだ。
三原駅前の商店街、マリンロードには、この名物のタコをモチーフにしたタコストリートがある。合格ダコや、元気ダコ、恋人ダコに笑いダコ…。その豊かな表情を見ていると思わず笑みがこぼれる。
江戸時代の風情を残す 大崎下島 御手洗(みたらい)
広島県呉市の御手洗は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の東に位置し、江戸から明治にかけて、風待ち・潮待ちの港として栄えた町。船で向かえば、美しい高燈籠(たかどうろう)をいただく千砂子波止(ちさごはと)が、旅人を迎えてくれる。千砂子波止とは、江戸時代後期に築かれた防波堤(波止)。当時の最高技術が用いられ、「中国無双の良湊」と称賛されたという。
高燈籠のすぐ近くには住吉神社がある。1830年に造営された住吉神社は、大坂の豪商・鴻池善右衛門をはじめとする各地の商人たちの寄進によるものだという。また、その北西には御手洗天満宮も。江戸時代に記された伝承によれば、神功皇后が朝鮮出兵に赴く際に立ち寄り、社殿裏手の「本川の井戸」で手を洗ったことから、ここを「御手洗」と呼ぶようになったといわれている。
※神功皇后伝説は諸説あります。
御手洗を語るうえで欠かせないのは、なんといっても重要伝統的建造物群保存地区に指定されている町並みだ。大小の商家、茶屋、船宿、住宅、神社、寺院などが混在する町並みをそぞろ歩けば、風待ち、潮待ちの港町として繁栄し、人と物、情報が集まる要衝地として栄えていたことがよくわかる。今も、まるでその時代の空気を閉じ込めたかのような情緒が漂い、江戸時代にタイムトリップしたかのような感覚に包まれるは、島の人たちの温かさゆえかもしれない。
海軍とともに発展した街 呉
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温暖で風光明媚な港町・呉。三方を山に囲まれ防御に優れたこの地に、海軍力の整備が重要な課題となっていた明治期の日本は、1889年に海軍の機関である鎮守府を置いた。「帝国海軍第一の製造所へ」とは、伊藤博文が呉鎮守府の役割について述べた一説である。呉の自然地形は、艦艇の入出や軍需生産活動にも適していた。やがて呉鎮守府は伊藤博文の言葉どおり「第一の製造所」へと発展していくことになる。
日露戦争が始まる3ヶ月前の1903年11月には、東洋一の大工場、呉海軍工廠も誕生した。ここでは日本海軍の持てる技術の粋を集結し、“世紀の巨艦”戦艦大和や、戦艦長門(ながと)など数多くの軍艦が建造された。その技術を支えるため、まちは“セーラー服の水兵と作業服の海軍工員”があふれる繁栄ぶりだったという。余談になるが、呉市民気質の例えで、「犬小屋でさえ、図面を起こして正確にきれいにつくる」という話しがある。単に手先が器用というだけでなく、物事に真剣に取り組む姿勢、ものづくりに対するこだわりを指すといわれているが、その根拠は「呉海軍工廠があったからではないか」という人もいる。
第2次世界大戦直後から現在に至るまでも、戦前から培われてきた技術が新しい技術と結びつき、世界最大級のタンカーを数多く建造するなど、海軍由来の産業が今なおこの町の基幹産業となっている。そして、現在の呉には海上自衛隊の基地が置かれ、日本の海を守る中枢となっている。イージス艦を除く、あらゆる種類の戦艦が約40隻(せき)所属するという海上自衛隊呉基地。穏やかな港に目をやれば、灰色の船体がいくつも浮かんでいる。圧倒的な存在感。一目見れば、忘れられない光景だ。船上から眺めれば、より一層その迫力が感じられるだろう。